書評:砂の女
なんとか頑張って書いてみたい。
安部公房、と聞けばおそらくほとんどの人が高校の頃を思い出すんじゃないだろうか。
『棒』と題された、短い小説。
どこが面白いのかよくわからないままに、物語は幕を閉じる。
みたいなことを憶えている。
さて、表題『砂の女』は、そんな安部公房の作品、そのなかでも最高傑作と評されるほどのものである。
内容は程よく長く、なにがなんだかわからないうちに終わってしまうということはない。
そして『棒』のようにまるっきりファンタジーというか、絶対ありえない!と思うほどのことは起きない。
とはいえ、やはりなのかわからないが、極めて非日常的。
紹介文を引用する。
砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。家を守るために、男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から男の逃亡を妨害し、二人の生活を眺める部落の人々。
ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のなかに人間存在の象徴的姿を追求した書下ろし長編。20数カ国語に翻訳された名作。
らしい。
周囲を砂の壁に囲まれた家、そこにはしごで降ろされて一夜を明かす。翌朝見てみるとはしごがなく、上に戻る手段がなくなった、という状況。
水や食料は配給があり、やることといえば、砂によって家が崩れてしまうことのないように、ひたすら「砂かき」。
正直、ほとんど理解できていないと思う。
が、無理矢理にでもひねり出すことで、なにかが生まれるんじゃないかと思って書き記す。
どなたか、これは違うぞ、でもなんでもいいので、思うところあればなんでもお聞かせくださいな。
さて。
おおまかに自分の認識では、以下のように話が進む。
(現在の生活への疲れ・嫌悪・否定)→昆虫採集への傾倒・新種の発見によって自分という存在を残したいという願望→砂丘への訪問・砂穴の家への転落→砂穴での暮らしの否定→女に子が宿り、そのすきに脱出するもまた戻る男
実際には砂穴での暮らしの否定というパートがもっと長くて、そこでのメッセージもあるのだと思う。
ただ砂を削る日々を過ごし、自分がなんのために生きているのかわからなくなる。
でもそれは、自分にも当てはまるんじゃないかと思う。ただ仕事をする日々を過ごすのと、砂を削るだけの日々と、そこにいったいどれくらいの差があるのだろうか。
結局のところ、生きる意味なんてのは自分で見つけるほかなくて、それがどれだけ「世の中」の役に立っているのかなんて大した重さをもたないのかもしれない。
男は、新種を見つけ、そこに名前をつけることで人々、もしくは世界に自分を残そうとしたんだと思う。妻帯者ではあるが、自らの性病によって子供を作ろうとすることを避けていたように思う。
そのなかで、砂の女に出会い、逡巡や怒りを重ねながらも交わり、子を成した。
そして、生まれるというドタバタのなかで、一時は逃げ出すことに成功しながらも、また穴のなかに戻ってしまった。それは、子どもという存在によってある程度の満足を得たからじゃないだろうか。
…
あっさい考えだなあ、と自分でも思う笑
考えたいこととしては、
- 穴のなかで作った罠「希望」の役割・意味・意図
- 砂を削って暮らしている部落の人々が象徴しているもの(もう少し明確に)
- 確実にまだ存在している、見落としてしまった論点
かな。
こうしたアウトプットを続けながら、精進していこう。
人との関わり合い、その濃淡について
めでたく4日坊主になってしまった。
価値観について、最近思い悩むことが多い。
とりわけ、自分が社会とどのように関わっていくか。社会というよりは自分以外の人間と、といったほうが認識がずれないかもしれない。
近頃、少し自らが積極的になろうと努力しているからか、いろいろな人とコミュニケーションをとる機会が増えた。そしてそれが継続している。
その数が2桁に達するとかそういうことはないんだけど、それでもやっぱり、ああこのまま連絡を取る人数を増やしたところで、それは自分の幸せにはつながらないんだろうなあと思ってしまう。
自己の重要感、という記事を書いたが、たくさんの人から愛されることは、自分にとってはその「重要人物たらんとする欲求」を満たすことではないのだろう。もちろんそれによって満たされる人がいるのは知っているけれど。
この数と範囲にグラデーションはあるにせよ、ある程度、人というものを理解し分類する軸の一つになると思っている。
両極端な例を挙げれば、いろんな人から名前を知られて一方向でも好意的に思われることが幸せにつながる人と、たった一人自分を理解してくれる人がいれば良くて、その人の理解度というか、その人と通じ合えているかどうかが自分の幸せにつながる人、という感じだろうか。
自分は完全に後者なんだけど、できれば前者の人も理解してみたいと思っている。そのために行動を変えて、少しずつ結果につながっているように感じている。が、理解には至っていないので、別の方法を考えるべきなのかもしれない。
課題は解決すべきか?
まずい、なにかは投稿しないときれいな三日坊主になってしまう笑
という感じで見切り発車的に思ったことを書いていく。
向き合うべき課題についてかな。
自分には向き合って、解決しないといけない課題がある。
でもそこに目を向けると本当につらい。
そして、解決しなくてもいい問題のようにも思えてくる。今の付き合いを続けるなら、解決する必要があるけれど、普通の状態であれば解決しなくてもいい、むしろ美点にさえなるのかもしれない。
結局の所、一対一の関係において、一般的な正解なんてものはないのだろう。
そして、この一対一の関係を続けるために課題を解決するか、課題の解決を諦めてあたらしい関係に移るか。
どちらでもいいような気がするんだけど、でも後者は逃げのような気がしている。
どうしようかなあ。
自己の重要感について - 『人を動かす』
かの有名なデール・カーネギーの著書『人を動かす』のなかに、人はだれしもが自己の重要感を求める、という旨の記載がある。
今日はこれについて考えてみたい。
きちんと人の長所をとらえ、それを真心込めて相手に伝えること。これがお世辞と感嘆との違いであり、僕が目指していかないといけないものだ。
そしてこれを伝えることによって、相手に尊重しているというメッセージを伝えることができ、それによって相手の重要感が高まる、ことがある。
相手が「自己の重要感」を得る方法はなにか、ということも重要。
上のような褒め言葉はだいたいどのような相手にも通じるだろうが、多分それはクリティカルではない。自分にとって唯一無二の存在(それは配偶者だったり息子だったり、親友だったり)に対しては、その人がなにで重要感を感じているかを悟り、それを与えることでさらに関係性を深め、より良いものにすることができるように思う。
そしてこれを改めて自分で考えてみると、おそらくこれは「時間を費やしてくれること」なのだろうという考えに至った。
金や言葉、贈り物なんかよりも、ただ自分のために時間を使ってくれたこと、それが「自己の重要感」につながる。
あなたの「自己の重要感」を高める方法はなんですか?
読了:相手の身になる練習
相手の身になる練習 (小学館Youth Books) 鎌田 實
https://www.amazon.co.jp/dp/4092272812/
標記の本を読んだ。
書いてある内容は本当に当たり前にしていきたいこと。
普通のことばかり書いてあるように思えるけれど、それがきちんと実現できていないのだろう。
例えば「相手を価値ある人として接する」という指針がある。
ここにおける「誘導しない」。これ、意外とできていないんじゃないだろうか。
仕事でも恋愛でも、ややもすれば自分の望む方向に誘導しようとしてしまっている。
逆に、人から話をされて、「あ、この人はこの方向に誘導しようとしているな」と感じたことも多々ある。
ソクラテスメソッドもそのようにとられる危険性があるのか、なんてことも考えた。
あれは誘導するつもりなんてないものだろうが、誤った使い方をしてしまうと、答える側が誘導されているようにしか感じず、建設的な議論が台無しになってしまう。
なんの話だかわからなくなってしまったな。
さらっと読める本なので一読をおすすめします。
宣誓:『かぐや様は告らせたい』はいい漫画だよ
注意:『かぐや様は告らせたい』についてはほとんど語らない。
のっけから引用でかっこ悪いが、『かぐや様は告らせたい』という漫画に、次のような台詞がある。
『誓ったことは必ず守る。』
『絶対的に信じられるものが人生には必要』
この台詞がとても好き。
別に誰かに手ひどく裏切られたとか、権謀術数うずまく闘争をくぐり抜けてきたとか、そういったことがあったわけではなくて、ただそう思う。
VUCAだなんて聞こえのいい、意識の高そうな言葉を使わなくても、情報に溢れ、予期せぬことが多発し、だからこそ移ろいやすく、いろんなことが不確実なことくらいもはや当たり前になってしまった。
これ自体は悪いことではないとも思う。それによって良くなった社会があるのも事実だろう。
でも僕は、だからこそ、そこで絶対的に信じられる安心感のようなものを大切にしたい。
というわけでここに誓う。
まずは毎日、なにかしら更新していきます。
いや「まずは」とか「なにかしら」とか、「更新」とか、定義が曖昧だろう。早速逃げ道を作ってしまっているみたい。
改めて、
1日1記事投稿します。
前振りが非常に長くて申し訳ない。
この記事の中身は最後の文章に集約している。
『かぐや様は告らせたい』については、またいつか語ります。